鯉渕要人とは
桜田烈士 贈 正五位 鯉 渕 要人 略 傳
鯉渕要人珍陳(幼名要三郎)は、常陸国茨城郡上古内村鹿島神社
・諏訪神社の祠官 数馬義重の嗣子として、文化七年一月七日生を享け、幼きより文武の道を好み、成沢村(現
弘化二年三月
斉昭公の雪冤について同志斎藤監物等と江戸に上り、閣老阿部伊勢守邸に哀訴して罪を被り、水戸赤沼の獄舎に禁固される。数年後、主冤氷解するに及び赦されて家郷に帰り、父の後を継きて鹿島・諏訪両神社の祠官となり、報本反始の誠をもって神明に奉仕し、敬神尊王の誠を説き、国体明徴して尊皇絶対を雄叫びつつ日夜憂国の士と尊攘の義を唱えて東奔西走す。
安政五年六月 幕府は勅許を得ずして日米修好通商条約に調印し、朝廷の尊厳を冒す幕政、幕威を利して憚ることなく、これらを非難する公卿、諸侯をはじめ多くの志士等を罰し、安政の大獄を起し幾多有為の士を失う幕政に、安政五年八月八日、朝廷より水戸藩主に勅書が下賜され、その内容は「井伊の幕政を批判、国の将来を憂慮」
等、更に、これを諸藩に回達せよとの趣旨に驚いた幕府は、不法にも勅錠の返上を強硬に要求した。
幕府の態度に激昂した要人は同志と共に、勅錠の返上を阻止しようと小金井宿に屯集したが、斉昭公の訓戒に士民たちやむなく国元に引き揚げたが、幕府は一層強硬に返上を迫る状況に第二次小金井屯集、長岡(
三月一日義盟の同志と共に日本橋西河岸、山崎屋に会合、着府する者少なく斬奸の成否を懸念するも、明後三日は上巳の嘉節により大老必ず登城の予定なれば外桜田門外と、はじめて実行日と場所を決定、遵守事項等の申し合わせ箇条書を決定する。三月二日 いよいよ事を挙げるは明日と、品川相模屋に要撃の十八士所処より集合、要撃の陣形、配置等を決定す。要人は 左翼隊先鋒の黒沢・有村・山口・増子・杉山に十歩ほど後に、鯉渕・蓮田・広木と位置し、右翼隊は佐野、大関・森山・海後・稲田・広岡なり、井伊行列の前部を衝くは森・斥候は岡部・斎藤は総代として趣旨書を老中に呈すべく戦闘には参加せぬこととし、関は総指揮者と決定する。三月三日 前夜品川にて決別の会宴を張り、明ければ天は偶然にも大雪を義盟の士に与え、三々五々と愛宕山頂に集結、桜田門外をめざしてそれぞれ部伍を定め下山、大老の登城を要撃し首尾よく丼伊直弼を斃す。要人享年五十一歳・十八士中の最年長であった。白訴せんとするも左翼、顔面鼻より唇にかけて深傷に歩行困難となり八代洲河岸にて深傷の山口辰之介と刺し違いて死す。遺体は塩漬けの上、小塚原回向院に仮埋葬される、法名英節なり。
文久三年十一月、桜田門外、東禅寺、坂下門事変の烈士の遺体は改葬されることになり、遺体は丁重に洗い清め羽二重の衣服に麻の袴、仮製の大小刀を着佩、檜の一寸板の寝棺に斂め、次に樅製の棺に、更に大長持ちに納められ、十一月二十日、藩中の士、有縁者来会し、三十一の御用長袴を揃ひの衣服をつけた人夫が担ぎ、その行列の威容さと勤王志士の霊を拝さんとする群衆市をなし、水戸領内に至りては各村々より奉仕の担ぎ手により威儀を正して家郷に送られ、要人は十一月二十八日に先塋の側に埋葬、墓碑銘は「英節」
小塚原回向院の法名なり。
要人出立後、義次父の祭服を披きしところ同志、氏子宛 次の如き遺書 あり。
尚 々
末 々 誠 心 を 繼 き 持 張 候 様 ご
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申 二 月 十 日
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淵
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國 君 の 為 と や 思 ひ た も ひ け む
身 は あ つ ま 地 の 露 と 消 ゆ と
も
鯉 淵 丈 衛 門 殿
鯉 淵 元 衛 門 殿
出 澤 喜 八 郎 殿
小 瀧 善 次 衛 門
殿
小 瀧 太 一 平 殿
居村 御 同 志 中
君 が た め い さ む 春 駒 む ち う て
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武 蔵 あ ふ み 乃 あ ら ぬ か ぎ り
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二 白 御 城 下 諸先 生 は 猶 更 小 勝 盟 子 西 手 郷 村
有 志 へ 宜 敷 様
に 奉 願 候 以 上
此 度 産 子 中 へ書 置 之 事 我 等
儀 諸人 の 為 發 足 い た し 御
兩 君 様 へ 身 命を 奉 捧 御 奉 公 申 上 候 間 忰 共 之
義 宜 敷 奉 頼
候 急 ぎ 早 々 以上
安 政 七 年 二 月 十 日
奉
仕
職
産 子 中 へ
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